山との出逢い 林 真史

丹沢のブナ林
丹沢のブナ林

東京オリンピックが開催された1964年、私が生まれた新宿区は自然とは遠い都市部でした。
 山といえば幼少期に母の故郷である熊本の阿蘇山へ何度か登り、小中と学校登山で登った丹沢や高尾山、高校時代に家族旅行で嫌々登らされた白馬岳くらいでした。


それでも小学校へ上がる時に移り住んだ武蔵野の大地には、トトロの森のような自然が残り、そこにはタヌキなど野生動物も生息しており、学校から帰ると森や川、田んぼが遊び場でした。

 最初の転機は21歳の時。

音楽、料理の師匠でもある尾崎亜美さんと出逢い、キャンプやアウトドア料理の魅力を知り、その後20代の時にレコーディングの仕事で訪れたアメリカで、壮大なスケールの大自然に衝撃を受け、20代半ばからは特にユタ州の山々、シェラネバダ山脈の山々に惹かれ、幾度となく数週間から数ヶ月掛けて放浪の旅に出るようになり、テントを張り鳩(食用)を丸ごと焼き、時には地図も装備も無しで山を歩いたりもしていたのですが、それはとても登山と言えるようなものではありませんでした。 

 

日本でもたまに短パンにサンダルで富士山を登る外国人(欧米人)を見かけますが、当時の私は正にそれで、いま思い返してもゾッとします。

そんな私が山のガイドになるきっかけに繋がる出来事が2011年、東日本大震災。

震災までの私は10代の頃からミュージシャンとして音楽業界の仕事しかした事がありませんでしたが、震災から数ヶ月間は音楽をはじめとする娯楽産業は日本中で自粛になり、コンサートツアーやイベント、テレビの音楽番組の出演なども全てキャンセルになり、時間と身体を持て余した私が向かったのが宮城県石巻、まだ大きな余震も多い4月でした。

それまで当たり前にあった電気、ガス、水道などライフラインの無い被災地での半年間のテント生活。 
瓦礫撤去や泥出しなどの活動をしてる中で出逢い、意気投合した仲間の中に山関係の人間が多く、凄惨な現場での作業はとても厳しいものでしたが、テント場に戻り仲間達と自炊をしながら食事をする時、街の灯りが無くなった石巻市上空の星空がとても綺麗で、何か今までに味わった事のない心地良さと特別な経験をさせてもらい、後に私がガイドになるきっかけをくれた山の旅社代表取締役の木戸氏と出逢ったのもボランティアの現場でした。

不便な環境で皆で知恵を出し合い生活した半年間が過ぎ、秋には再びコンサートの全国ツアーが再開するとの事で石巻より引き上げ東京へ戻ると、何一つ不自由の無い環境に対し、今までとは感じ方、見え方、価値観が全く変わってしまい、派手な音楽業界と被災地の余りのギャップに戸惑い悩みました。

そんな時に石巻で知り合った仲間達と北アルプスへ。
訪れた涸沢の巨大なカール、それを見事なグラデーションで彩る紅葉の美しさ、一歩一歩進んで登った先に立った奥穂高岳からの眺め。
登山は苦しい時間の先に山頂での特別な達成感があります。それが被災地で瓦礫を一つ一つ運んだ厳しい作業の先に被災者の方に笑顔が戻った時の感動と重なり
私の悩んでいた事への答えと、求めていたものに触れた気がしました。

それから毎週何処かの山に登りに行くようになり、長野や関東近県の山のみならず、全国ツアー中にもホテルにテント装備の入った別ザックを送り、1人居残り山へ。 冬にはアイゼンやピッケルをザックに忍ばせ北海道から九州まで全国の山々を歩き、楽屋ではGPSの使い方、ロープワークの練習、移動中には気象学、雪崩学の本を読みながら、年間80日近く山を登る日々が数年続いたある日、愛犬が病気になったのを機に安曇野の標高1000mに立つ古い家を見つけ、生まれてから長年住み慣れた東京を離れ安曇野へ移り住みました。


私の山への情熱を呆れながらも好意的に見守ってくれ、色々な知識や技術、アドバイスをくれていた木戸氏からガイドの仕事のお手伝いに呼ばれるようになり、いつしか人を連れて歩き、楽しい時間も苦しい時間も共に過ごした全員で無事下山し、笑顔で帰っていくお客さん達を見送る事にとても充実感を感じはじめ、やり甲斐のある仕事としてプロになる決意をし、ガイドの資格をとり現在に至ります。

安全管理上、少し口うるさく感じる場面もあるかも知れませんが、良い距離で一緒に山に近づいて頂けたら幸いです。

ガイドの一番大事な役目は、お客様を何が何でも山頂に立たせる事より、無事に家族の元へ返すことだと思っています。

皆さんと、長く長く山を歩いて行けたらと願っています。

 


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